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カイロプラクティックとは?

カイロプラクティックとは?

1895年、米国人D.Dパーマーにより創始された治療法です。
アメリカを始めとするオーストラリア・ヨーロッパ諸国など世界70カ国で行われ、約30カ国で法制化されており、西洋医学に次ぐ第二の医療として発展しています。

患者様の症状(身体の痛みや背骨・骨盤の歪み)の原因を検査により探り出し、「主に背骨・骨盤を中心にアジャストメント(神経受容器への刺激入力)」を行うことにより神経生理機能の乱れを回復させ自然治癒力を高め「健康な体」・「病気になりにくい体」へと改善させていくことを目的としたヘルス・ケアです。

[check]背骨のゆがみも原因ではなく、結果的に引き起こされたものです
[check]決してボキボキ背骨・骨盤矯正する(関節を鳴らす)事がカイロプラクティック治療の目的ではありません。

日本では一般的に整体と同じもののように思われていたり背骨を矯正すればカイロプラクティック治療だと勘違いされているのが現状ですが、本来は全く別物であり、カイロプラクティックは国際的にドクターとして認められた専門職です。

カイロプラクティックとは? ー2ー

背骨のズレ(歪み)が脊髄神経の出入り口で神経を圧迫し働きを阻害する。
カイロプラクティックはその背骨のズレ(歪みを)矯正し、神経圧迫を取り除く。

神経圧迫説

カイロプラクティックやサブラクセーションを説明する際によく用いられる説の一つである。

もっともらしい説明である。
が、本当に正しいか?

解剖学的に見ても椎間孔部には神経の通る十分なスペースが確保されている。
もし、背骨のズレ(歪み)で神経が圧迫するならば、新体操選手や中国雑技団の人間離れした軟体技は不可能かもしれ
ませんね。

いやいや「彼らは健康体、若くて正常な背骨の状態だから大丈夫だ」なんておっしゃる方々もいらっしゃるかもしれませんが・・・。

数年ぶりに『エッセンシャルカイロプラクティック哲学』を開いてみた。
久しぶりに読み返してみたが新鮮な箇所がいくつもあった。
様々な疑問に答えてくれる。
カイロプラクターであれば一度は目を通して頂きたい。
一般の方々にも読んで頂きたい本であるが、まず一生目にすることはないと思いますので、ここで書き出してご紹介したいと思います。

『エッセンシャルカイロプラクティック哲学』

著 Dr Virgil V.Strang(パーマー・カイロプラクティック大学学長)
訳 増田 裕D.C.
発行 科学新聞社

第3章

サブラクセイションの言葉を使うとき、カイロプラクターは決まって次の様な意味で使っている。
すなわち、サブラクセイションとは「身体の任意の部位の生体力学的なズレや機能障害であるが、特に脊柱の隣接する構造や隣接の関節の生体力学的ズレや機能障害のために神経機能が以上となる状態を示す」。

サブラクセイションのある脊椎が(神経系の障害を通じて)内臓器官の健康にどれほど大きな影響を与えるかを示す例が1958年のアメリカ医師会誌に掲載されている。

著者[H.カミエスなど]はレントゲン写真で胃と十二指腸に潰瘍が認められた100人の患者のレントゲン学による研究を行った。

  • 中略-

この研究は以下の事を示している。
1)100人の患者の大多数(86人)の中部胸椎に小さな側彎が認められ、
2)側彎が左を向いていれば胃潰瘍、右を向いていれば十二指腸潰瘍、「S」字型の即彎の患者は両方の潰瘍がある。3)側彎は必ず椎骨セグメントT-6からT-9が関与しているが、このセグメントから胃と十二指腸に向かう交感神経が出  ている。
4)西洋医学の研究者は椎間孔の閉鎖が犯人の公算大であると信じている。
5)この椎間孔閉鎖の最も重要な要素は形態的-骨原性の変化とは対極にある「機能的-動的変化」であるようだ。このように言ってはいないが、あるいは恐らくこのことに気が付きもしないで、西洋医学の研究者は完全に正しいカイロプラクティックの結論に達したのである。

異なる専門職の間でサブラクセイションを議論すると必ず定義の問題に直面する。
メディカルドクターはサブラクセイションを「部分的もしくは不完全な脱臼」と考えがちである。
一方カイロプラクターのサブラクセイションについての考え方は全く違う。

隣接した椎骨からなる椎骨セグメントの変位は文字通りの意味での部分的脱臼ではなく、むしろ、椎骨セグメントの正常な機能の障害であり、「フィクセイション」という言葉で表現した方がもっと的確である・・・。
この様に、問題の椎骨は正常な動きの範囲内にあり、その関節面は接合している・・・。
こうしたフィクセイションは関連の椎間孔の大きさを実質的に変えはしないが、「変位」つまり「運動機能の障害」は神経分節、神経幹にとてつもない影響を与えるのである。

1つだけ強調しておかねばならない。
カイロプラクティックのサブラクセーションでは神経が挟まれることはない。

つまり、椎体のズレのために椎間孔が狭くなったり閉じたりして、神経が(「骨と骨との間で)」挟まれる事はない、のである。
しかし、この「挟まれた神経」という考え方がメディカルドクターによって、カイロプラクティックのサブラクセイションの事実上の定義として示されることがままある。
いったん暗唱すると、この定義は直ちに馬鹿らしくなる。

悲しいことだが、カイロプラクターですら、この単純で誤った定義を反復している場合があることも注視しなければならない。

A.E.ホームウッド、『椎骨サブラクセイションの神経動態学』の著者は次のように説明している。

時折だが、脊髄神経幹に直接神経圧迫がかかる場合があるにはある。
しかし、これはカイロプラクティックのサブラクセイションの例ではない。
むしろ、それは重篤な局部の病理や外傷の例である。

ー中略ー

この手の症状学を知りたければ、整形外科の手頃な標準的教科書を参照すればよい。
病理と外傷による直接の神経圧迫の症状の様子とカイロプラクティックのサブラクセイションの間にどのような類似点があろうとも、それは全くの偶然の一致にすぎないと確信した方がよい。

D.D.パーマーは75年前に次のように書いている。

脊髄は脊柱管内を自由に動き、脊髄神経は椎間孔から出る十分な空間があると考えると、正常な動きでは脊髄も脊髄神経も圧迫されないと言えよう。

ホームウッドは合わせて、カイロプラクティックのサブラクセイションは過少の神経供給ではなく、過剰な神経供給を生じる場合が極めて多い、という重要な指摘もしている。
D.D.パーマーは同様に「過剰な」神経刺激が過少の神経刺激よりも患者の問題となる場合が多いことを忘れないようにカイロプラクターに注意を促している。
しかし、D.D.パーマーが神経供給の減退の可能性を見過ごしているわけではない(「・・・過剰もしくは十分でないエネルギーは病気である」)。

どうです?
遥か昔から、カイロプラクティックの偉人達は背骨のズレ(歪み)で神経は圧迫されないと言っています。

しかし、文中にも指摘されていたように、未だにこの神経圧迫説を信じ込んでいるカイロプラクターは少なくありません。

国際基準の学位保持カイロプラクターや、アメリカで開業資格を取得されたドクターオブカイロプラクティックであっても同様です。

カイロプラクティックは(科学)(哲学)(アート)の三位一体と言いますが・・・。

国内のカイロ学校の中にはHPで「カイロプラクティックとは西洋医学に基づいた施術で・・・」、等の謳い文句で生徒を勧誘しているところまでありますが。
カイロプラクティックは西洋医学に基づいているの???
基礎医学を学べば科学的?
騙されないことです。

第3章

医者には決まって行くのに、どうしてカイロプラクターの所へ一度も行かないのか? 一般の人にその理由を聞くと、「メディカルドクターは科学的で、カイロプラクターは非科学的だから」という答えが返ってくる。
端的な言葉だけにあまりに多くの人々の心をとらえてしまう。

したがって、西洋医学はどういうわけか科学の一部門であるという一般の考えをまず俎上にのせないことには、カイロプラクティックの原則の科学的根拠を検討しようとしても徒労に終わるだろう。

マスコミはいつも「医科学」についての話を洪水のように浴びせる。
一般の人々は西洋医学の診療業務は科学的研究にしっかり根ざしていると考える。
つまり、西洋医学は科学である、というわけだ。

これは多くの西洋医学の臨床家の目標であって、現実ではない。
西洋医学の専門職の欠陥をあげつらわなくとも、西洋医学はなぜ純粋科学ではないのか、またどうして将来も決して純粋科学にならないのか、十二分の理由がいくつかあるのである。

ドーランド医学大辞典は「科学」という言葉の使用についていくつか重要な定義を行っている。

①自然現象を支配する法則を発見する目的で行う自然現象の「系統的観察」
②そうした方法で蓄積された知識の集合。

応用科学:・・・「発見された法則」を日常生活の問題に「適用すること」。

純粋科学:・・・特定の事実に関する「未知の法則の発見」のみに関わる。

明らかに、西洋医学の支持者がほのめかしている科学は「応用」科学であって純粋科学ではない。

純粋科学の研究者は特定の事実の「理由」を発見しようとする。いったん発見されると、応用科学の研究者が実用のための解答を出そうとする。それどころか、応用科学者は「理由」が解明されるのをわざわざ待つようなマネをしないことが多い。
アスピリンがいい例だ。
西洋医学はなぜ効くのかも分からずに一世紀近くアスピリンを使ってきた。
ものは使う前にしっかり分かっていなければならない、と言っているのではない。
西洋医学の健康ケアのおおよそのやり方は純粋科学から程遠いという事実の例をあげているにすぎない。
会陰切開術、骨盤の牽引、メペリディン(デメロール)、経皮電気神経刺激(TENS)は西洋医学の診療業務がおよそ非科学的で実用本位の性格をしている(引用可能な数百の)例のうちの4例である。

ー中略ー

西洋医学の業務は科学ではない。
文字通り「西洋医学の実践」である。
つまり、西洋医学の臨床家は「術」、したがって「医術」に携わっているのである。

西洋医学の業務が医術であるにせよ、科学の発見に「裏付けられている」という人がでてくるかもしれない。
この点はよく検討してみる価値がある。

まず、科学は忠誠とは無縁である。科学は西洋医学や歯科医やカイロプラクティックのためにあるのではない。
また、政府や私的企業のためにあるわけでもない。
科学者のためにすらあるわけでもない。

科学の働きは科学者の系統的な観察により、事実を説明する法則を樹立することである。
事実の立証は科学の働きではない。例えば、特定のガンが存在することが長いこと知られている。
それは事実だ。
科学の働きはそのガンが存在する「理由」、つまり原因となる状態、メカニズムを立証する事である。
健康術の誰もが個々の病気の原因となる状態やメカニズムを知りたい。
これは明白だ。

特定の原因となる要素についての知識で武装されれば、その病気との科学的な闘い方を学べる腹づもりなのだ。
しかし、まあ、それが危ういのである。
科学的に病気の原因を立証する事と、その状態の-科学的方法による-治療、矯正、治癒は別問題である。

ー中略ー

正しく理解すれば、本当に科学である健康術の専門職はないことがわかる。
健康術はそれぞれの術の改善に役立つ「手がかり」を最新の科学の発見の中に求めていると言った方が正確だろう。

主な独立した健康ケアの専門職(カイロプラクティック、西洋医学、検眼、オステオパシー、薬学、足病医、臨床心理学)は「臨床科学」という言葉がぴったりする。

科学の発見に常に心を配りながら、臨床科学者の目はいつも患者に向けられている。

つまるところ、患者の系統的かつ偶然的な観察を通して、健康の専門職はそれぞれ特定の分野の技術と術の面を受容したり、拒否したり、修正したりしているのである。

応用科学者は最新の物質を「奇跡的に効く薬」と呼ぶかもしれないが、臨床現場の患者の様態が悪くなれば、その投薬を直ちに中止するのである。

カイロプラクティックは手の技という意味だから「手でアジャストしなければならない」と述べるカイロプラクターも多い。

が、それこそが正しいのか?それだけが本物?

それは個々のカイロプラクターのコダワリ?信念?固定観念?好み?でしょう。
それが悪いと言っている訳ではない。
「手でなけれならない」と言うならば、「科学的」とは一切言わないことだ

カイロプラクティックは背骨のズレ(歪み)を取り除いているの?
背骨のサブラクセーションが病気の原因?
カイロプラクティックはサブラクセーションを取り除くだけでよい?

第1章

ー上略ー
たとえば、、B.J.パーマーは何度か自分の考え方とやり方を根本的に変えている(メリックシステム、X線、ニューロカロメーター、ホールインワン、フルスパイン・アジャストメントの再導入)。

B.J.は次のように書いている。
「私は研究生であることを一時もやめたことがない。われわれの新しい科学に潜んでいる未知の問題の解決のために、最新、最良の説明を探究しているのである」。
初期のカイロプラクティックの指導者は自分たちの考えが時代遅れにならないように努めた。だから、さまざまな陣営の反論を呼びやすい論争的な用語を脇に置いてしまえば、カイロプラクティックの主なテーマに関心を注ぎ事が出来るだろう。

ー中略ー

カイロプラクティックの哲学は、古典哲学と同様に、石に彫られるような歴史の遺物となってはならない。

カイロプラクティック哲学は、新しい適切な科学の発見があればそれをすぐに受け入れて、生き生きしていなければならない。

20世紀の哲学者、
C.E.M.ジョードは次のように書いている。
「したがって、哲学では日常生活と同じように、うぬぼれは無知のなせるわざである」

第7章

サブラクセイションは結果である。

カイロプラクターはこの事実を忘れる事がある。

D.D.パーマーの著作に「毒も同じように作用して神経と筋肉を収縮させるので、骨のズレを引き起こす」と書いてある。

D.D.はサブラクセイションの原因を外傷に求めるのはもっとやさしいし、その原因を暗示にまで求めることができる、とも言っている。

サブラクセイションは結果であるので、サブラクセイションの除去だけでなく、その予防もカイロプラクターの義務である。

サブラクセイションが起こるのを防ぐためにはまず、サブラクセイションが頻繁に起こる様子を理解しなければならない。

以下、D.D.パーマーの「暗示」が直接的にも間接的にも毎日何千というサブラクセイションを生み出していることを論ずる。

身体の働きは「エネルギー均衡の等式」とも言える関係に基づいている。
すなわち、エネルギーは発生すると、どのみち全て消費されてしまうのである。

話す、歩く、考える、食べる、眠る、泳ぐ。これらの活動でエネルギーが消費される。

適切なエネルギー量を生産して諸活動に充てる限り問題はない。

ある特定の状態にとって過剰なエネルギーが産出されると問題が起こる。

極端な例をあげると、交通事故を目撃した人の動脈にアドレナリンが通過し、数分後に震えがくる。
アドレナリンは車を持ち上げたり、ガタガタのドアをこじ開けたりする時のように、身体に解放されなければならない。
つまり、未使用の筋肉が働いて過剰なエネルギーを震えに解消しているのである。

大半とはいかないまでも、多くの人が絶えず低水準の「神経エネルギー」を産出しているが、それは珍しいことではない。
爪を噛む、爪先で床をたたく、指でテーブルをコツコツ叩く、こぶしを握る、顎に力を入れる、それにこれこが大切だが、脊椎両側の筋肉が緊張する。
実際、数百万の人々が無意識に脊椎の筋肉を絶えず緊張させている。
このため、これらの人たちは適切な量を超えたエネルギーを発生させているのだ。

中枢神経系は、この過剰なエネルギーを効率的に脳や脊髄に最も近い筋肉、例えば咬合の筋肉、後頭下と脊椎近傍の筋肉へ流す。

体軸の筋肉の過緊張はズレやサブラクセイションを生む。

しかも、追加的、継続的な神経の流れは様々な脊髄の髄節を促通させ、これらの髄節と神経的に関連したその他の組織、器官の機能を亢進させがちである。

いやしくもカイロプラクターなら、生涯をサブラクセイション除去に捧げるだけでなく、患者自らがサブラクセイションの原因に立ち向かうように指導すべきである。
それこそが我々の素晴らしい挑戦である。

ドクターとは本来「教える」資格を持つ人の意味である。
全てのカイロプラクターには教える責任がある。

ー中略ー

何を教えるべきだろうか?すべての人が理解すべき至高の健康ケアの考え方はこれだ。
すなわち、意識的にも無意識的にも精神が障害を起こすときには必ず身体に酷い結果が現れる、ということだ。

##感情の起伏が激しいと、やがて生理学上の重篤な結果が生じる。
カイロプラクターにとって心底狼狽した人の脊椎を矯正しようとする仕事ほど辛いものはない。##

サブラクセイションは矯正しても矯正しても戻ってしまう。

意識的あるいは無意識的な心の葛藤を伴う神経エネルギーは、平滑筋と横紋筋を緊張させ、ひいては生理学的な機能障害を誘発するだけでなく、筋肉の緊張で生じたサブラクセイションによって機能障害を不変なものにする。

心身の健康な関係をどのように教えたらいいだろうか?
まず隗より始めよ、である。

古代から「先生、まずご自分を癒しなさい」という言葉があるが、適切である。
ドクター・オブ・カイロプラクティックはある程度の心の安らぎを享受しなくてはならない。
しかるのち、同じ問題を抱えた患者を助ける事が出来るようになる。
カイロプラクターのボディランゲッジは緊張、葛藤、敵意、不幸を語っているだろうか?

生活とは術である。
この術を学ばなかった人にとって、生活とは大変苦痛となろう。
生活の術は誕生から始まる。
といっても、子宮からの誕生ではない。
生活の術が本当に誕生するのは、人が(身体的、感情的、精神的、性的、社交的、知的)「存在」であることの責任を認識し、その責任を引き受ける時である。

ある学者は次のように協調する。

我々は健康である責任がある。
身体の倫理の様なものがあることに気が付いているような人は少ない。

この考えは、自分たちの健康を他人任せにするのは倫理に反する、というものだ。
自分自身の健康に責任を持たないのは児戯に等しい。
全てのタイプのあまりに多くのドクター(と、あまりに多いその患者)は自分の身体の面倒をみようとしない。
この人たちは自分たちの健康の問題を別のドクターや配偶者、両親に任せてしまう。
「自ら努力して病気を治し、健康を維持しよう」とは言わないのだ。
確かに、別のドクターは必要かもしれないが、しょせん診断とケアのためだけであり、感情的な重荷を肩代わりしてはくれない。
前述の身体の健全に責任を持つことは感情、精神、性、社交性、知性の健全にも当てはまる。
これらの大切な自己の諸側面に責任を取ろうとしない限り、その人はますます子供じみた未熟なレベルにとどまり、他人の考え、信念、目標、「して良いこと」、「して悪いこと」に追従するだけとなる。
不健康な人あるいはいずれ不健康となる人間は全ての意思決定を他人にゆだねる事が多い。
医者が体重を減らすようにと言うまでは何もしない。
宗教についての考えを得るのも僧侶次第。
どんな仕事に就いたらいいかもカウンセラー任せ。
車選びも雑誌『モータートレンド』に頼り切り。
最新の流行を追いかけて社交上の「楽しみ」にする。
心を落ち着かせるために、死ぬまでお金に執着する。

本当にやりたいのはそれが出来るからでなく、そうする価値があり楽しいからである。
お金や物を追求するのは、ただそうすることが自分の重要性を感じさせてくれると思うからだ。
しかし、この感覚は、どんな才能があるかを判断して実施するからこそ可能なのだ。

本当に独創的な能力を生かしている時、内心気分がいいのは当然だ。
言いたいのは、『モーターランド』や流行は価値がないということではなく、他人に自分の人生を任すと感情は乱されて病気になる、という点である。

全ての外部の権威はアドバイザーにすぎないと認めて自分自身の成長に全責任を持つまでは、その人は実際にはまだ完全に誕生していないのである。

この未熟な状態では、健康を求めても浅いものになるだろう。

自滅的に他人にすがろうとするあまり、医師の所に行って治療を受けるという習慣を破れず、身体は衰弱していく(カイロプラクターの所に行って治療を受けても同じことである)。

「そうだ、健康が大事なんだ。だから、医者が必要なんだ」。
これがその自己認識である。

健康の価値は認めているが、自力本願で健康になるという価値は認めていない。
スペンサーのいう「健康になる責任」の問題に立ち向かえる力に価値を認めていない(あるいはその力を信頼していない)のである。

精神科医の巨人の一人であり『精神的な対立』の著者であるカレン・ホーニーは「矛盾した行為は体温の上昇が身体の異常を表しているのと同じくらい、対立が存在している明白な徴候である」と書いている。

健康的な習慣を説教しながら自分では実行していないカイロプラクターは深刻な内部対立がある。

「カイロプラクティックは健康と生活に根本的に新しい見方を与えてくれた」としながら、「一週間に一回のアジャストメント」を永久的に受けると言い張れば、このカイロプラクターは健康の自力本願を望みながら定期的な「回復」でお茶を濁すという古い対立の図式にはまっているのである。

自分の人生を調整することは脊椎を矯正するのと同じくらい大切なことである。
このような仕事を始めるのに必要なのは自分の本当の考え、感情、望みである。
アポロ神殿のある古代都市デルフィの啓示は「汝自身を知れ」であった。
みんな「本当に何を考えているのか、どんな事に価値を認めているうのか、何を信じているのか、何を望んでいるのか」を自問しなければならない。

「お母さんは私に何を望んでいるのかしら」でも「牧師は何をお望みなのか」でも「患者は何が欲しいのか」でもない。
だからといって、お母さん、牧師、患者に反射的に反対しなさいと言っているわけではない。
でも、正直に正しいと感じていることだけをやりなさいと言っているのだ。

そうすれば、様々な権威の一方ではそうすべきであると言い、他方ではそうすべきでないと言う対立した意見の寄せ集めの中から、自分で選り分けられる様になる。

この目標は人生を束ね、自分自身の人生が一貫したものであり、真実であり、満足できるものだと思うようになることである。

このためには、最も根深い習慣、最も根深い偏見、最も確実な断定など、教わった全てを検討する必要に迫られる。

ソクラテスが述べているように、「試されていない人生は生きる価値がない」

どうすれば成熟した健康な術者は患者に自分の健康についてもっと責任ある態度を持たせることができるか。
カーリル・ギブランは『預言者』の中で教師について書いている。

教師が本当に賢ければ、「知恵の家に入りなさい」と命令しない。
むしろ、あなた自身の精神閾に導くのである。

ー下略ー

また数年後に読み返してみたい。

科学もカイロプラクティックも西洋医学も、更に変化・進歩しているはずである。


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